いじめといじりと愛情表現。

いじめを無くそうという空想論について思うこと。
長いし、退屈間違いなしですが、暇ならどうぞ↓

他人との間で自分を相対化すること以外に
「人格の完成」のための手立てがあるなら可能かもしれないけど、
それが見つからない限りいじめを無くすのは無理じゃないかな。
みんな他人と自分比較して、
他人に意味押し付けつつ、他人から意味押し付けられつつ、
自分の意味・存在を見つけて、守って、
何らかのイベントで動揺しようもんならまた同じこと繰り返して、
そして「大人」になっていく。
その他人への意味の押しつけが、
他人に対する愛情表現・いじりで済むこともあれば、
いじめに発展することも十分ありうる。
10代前半は特に弱い人、
つまり自分がわからなくて不安を感じて耐えられない人が多くて
そんな人間が複数集まれば、
今はまだわからなくてもいいと安心する人もいれば、
集まってきた人間の手ごたえのなさに、ますます不安が増して、
不安を攻撃性に換えてそれを発散しようとする人もいる。
自分がわからない以上、相手が何を感じるかもイマイチ想像できなくて、
その攻撃はいじめにエスカレートする。


ただ、いじめを和らげる、
もしくはエスカレートさせないようにすることは出来ると思う。


例えば、いじめられている人に、
いじめている人がいう言葉一つ一つに
「かもしれない」をつけてみることをアドバイスしてみるとか。
コメディがTVに存在して、
攻撃的な言葉でいじり、いじられることを見せ付けて
視聴者に安心感を与えるという構図が成り立つ限り、
攻撃的な言葉はなくならない。*1
それなら、それに対応するしかない。
「うざい」かもしれない、
「死んだ方がいい」かもしれない、
これだけで少し楽になるんでないかな。
そもそも、人間なんていう複雑な生き物について、
まさか他人が外側からちょっと見たところで理解しきれるわけがないしね。
「かもしれない」を習慣づけてそれに気づけると、
きっと楽になるはず。


例えば、愛していてくれる人、生きていて欲しいと願う人の存在を伝えること。
それは親でも友人でもなんでもいい。
なんなら、初対面のその瞬間から、自分がその存在になってもいい。
これを伝えることはそんなに簡単に出来るわけでもなさそうだけど、
もし出来たなら
それだけで、いじめる集団の空虚な連帯に対する
いじめられる側の孤独感が解消されるんではないかな。
つらく苦しいときのSOSも発信しやすくなるんじゃないかな。


例えば、今まで当たり前と言われてきたこと・思われてきた一般則を
改めて、意識的に次の世代に伝えること。
特にいじめについて言えば、
「自分がされて嫌なことはするな」
ということ。
そのためには自分がどんなとき嫌な気分になるか知るために、
親が子どもに
意図的に嫌な気分を体験させることも必要幼いうちは必要かも。
家庭が機能しないんなら、
そういうのを教える能力も気持ちもないんなら、
もう親世代はある程度見放して、
その次の子どもの世代をなんとしても徳のある世代にするために、
つまり、負のスパイラルを断ち切るために、
学校が、もしくは幼稚園が、
ゆとりでもなく学力偏重でもなく、
徳育をしなきゃいけない。
何が道徳か、無宗教の国ならなおさら意識的にならなきゃいけないけど、
長いことそれを怠ってきたツケの面も
今の世の中には多少あるんではないかな。
バウチャー制云々より、教育基本法の文言云々より、
そしていじめやすい校長の責任の糾弾に終始することより*2
これが最優先じゃないのかな。


偉そうにすいませんでした。
いまだ、自分に出来ないことを書き連ねてしまいました。

*1:個人的にはお笑いは好きだし、攻撃的な言葉を無くすためにお笑いをなくそうというのもまた、人格形成の過程を考えると空想論に思える。さらに、お笑いが不安感を削いでいる側面も否定できない

*2:いじめを無くそうと言いつつ、現場・教室一つ一つを把握しきっているはずがないがとりあえず責任追及しやすい校長をいじめて、それのみで何かが解決したかのような態度を取るマスコミの姿勢には大きすぎる矛盾を感じる